キリスト教ではよく「愛」という単語が使われますが、これはアガペーの愛です。アガペーとは無償という意味で、現代のAIでは
「見返りを求めない献身的な愛」
「自己犠牲的で相手に尽くすタイプの恋愛」
「相手の利益を第一に考え、自らの犠牲を厭わない」
「神が人をいつくしむような、無償の愛」
と出てきます。
イエスはこの世におられる間、当時ユダヤ教の人々から嫌われ、蔑まされ、また迫害されていた人々と共に、多くの時間を過ごされました。そして数々のお話をされ、時に奇跡を起こして救われました。当時の恵まれた人々ではなく苦難に喘ぐ人々と共に歩まれたのです。
これだけを見ていると、神の愛は、まずはこの世で恵まれている人々ではなく、この世で苦難を味わっている人々にこそ優先的に与えられると言わんばかりです。ですが、観ておきたいのはそれだけではありません。
イエスは神の「愛」の形を説明するために、様々なたとえ話をされました。ここでは、二つの福音書の中に書かれている「放蕩息子のたとえ話」と「ブドウ園の労働者のたとえ話」を紹介します。


「放蕩息子のたとえ話」
また言われた、「ある人に、ふたりのむすこがあった。
ところが、弟が父親に言った、『父よ、あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください』。そこで、父はその身代をふたりに分けてやった。
それから幾日もたたないうちに、弟は自分のものを全部とりまとめて遠い所へ行き、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した。
何もかも浪費してしまったのち、その地方にひどいききんがあったので、彼は食べることにも窮しはじめた。
そこで、その地方のある住民のところに行って身を寄せたところが、その人は彼を畑にやって豚を飼わせた。
彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどであったが、何もくれる人はなかった。
そこで彼は本心に立ちかえって言った、『父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。
立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。
もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください』。
そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。
むすこは父に言った、『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません』。
しかし父は僕たちに言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。
また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。
このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』。それから祝宴がはじまった。
ところが、兄は畑にいたが、帰ってきて家に近づくと、音楽や踊りの音が聞えたので、ひとりの僕を呼んで、『いったい、これは何事なのか』と尋ねた。
僕は答えた、『あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事に迎えたというので、父上が肥えた子牛をほふらせなさったのです』。
兄はおこって家にはいろうとしなかったので、父が出てきてなだめると、
兄は父にむかって言った、『わたしは何か年もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけにそむいたことはなかったのに、友だちと楽しむために子やぎ一匹も下さったことはありません。
それだのに、遊女どもと一緒になって、あなたの身代を食いつぶしたこのあなたの子が帰ってくると、そのために肥えた子牛をほふりなさいました』。
すると父は言った、『子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ。
しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである』」。
(ルカによる福音書 15:11~32)
「ぶどう園の労働者のたとえ話」
「天国は、ある家の主人が、自分のぶどう園に労働者を雇うために、夜が明けると同時に、出かけて行くようなものである。
彼は労働者たちと、一日一デナリの約束をして、彼らをぶどう園に送った。
それから九時ごろに出て行って、他の人々が市場で何もせずに立っているのを見た。
そして、その人たちに言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当な賃銀を払うから』。
そこで、彼らは出かけて行った。主人はまた、十二時ごろと三時ごろとに出て行って、同じようにした。
五時ごろまた出て行くと、まだ立っている人々を見たので、彼らに言った、『なぜ、何もしないで、一日中ここに立っていたのか』。
彼らが『だれもわたしたちを雇ってくれませんから』と答えたので、その人々に言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい』
さて、夕方になって、ぶどう園の主人は管理人に言った、『労働者たちを呼びなさい。そして、最後にきた人々からはじめて順々に最初にきた人々にわたるように、賃銀を払ってやりなさい』。
そこで、五時ごろに雇われた人々がきて、それぞれ一デナリずつもらった。
ところが、最初の人々がきて、もっと多くもらえるだろうと思っていたのに、彼らも一デナリずつもらっただけであった。
もらったとき、家の主人にむかって不平をもらして言った、『この最後の者たちは一時間しか働かなかったのに、あなたは一日じゅう、労苦と暑さを辛抱したわたしたちと同じ扱いをなさいました』。
そこで彼はそのひとりに答えて言った、『友よ、わたしはあなたに対して不正をしてはいない。あなたはわたしと一デナリの約束をしたではないか。
自分の賃銀をもらって行きなさい。わたしは、この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。
自分の物を自分がしたいようにするのは、当りまえではないか。それともわたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか』。
このように、あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう」。
(マタイによる福音書20:1~16)


これらのたとえ話からは、聖書の中心テーマ、キリスト教の重要なポイントが見えてくるような気がします。
どちらのたとえ話にも、哀れみを受け窮地を脱して喜びに変えられた人々がいます。『放蕩息子のたとえ話』の弟息子であり、『ぶどう園の労働者のたとえ話』では、途中からあるいは最後の最後にようやく雇ってもらえた人たちです。
また、どちらのたとえ話でも、不平不満を言う人が登場します。『放蕩息子のたとえ話』では兄息子であり、『ぶどう園の労働者のたとえ話』では最初から働いていた人です。
そして、どちらのたとえ話にも、もうひとりの主人公がいます。それは放蕩息子たちの父親であり、ぶどう園の主人です。どちらも間違いなくあわれみ深く慈愛に富んだ存在です。
通常、人間社会ではこの兄息子が父に対して文句を言いたくなるのは当たり前であり、朝から働いた労働者が雇い主に不満を募らせ不平等だと訴えることは当前でしょう。なぜなら、家を飛び出して好き勝手なことやった息子よりじっと我慢をして頑張って親につくした息子の方、また、朝から長時間真面目に働いた労働者の方に夕方からちょっと来て働いていった労働者より多く報酬を支払う方が、正当化され社会正義にかなっているからです。
神の「愛」は、時に理不尽に見える時があります。しかし、キリスト教でいう神の「愛」は、個人の行為そのものすなわち行いによる対価ではなく、まずは救いを求めた者に対して神が哀れに思われ、一方的に与えられるものなのです。
上記の「放蕩息子のたとえ話」では、家を出て行った弟息子は様々な苦難にあったうえ最終的に父親に対して「罪を犯しました、雇人と同じように扱って」と父に対する不義を恥じて、家に帰ってきます。その息子を父は受け入れた・・・
一方「ぶどう園の労働者のたとえ話」では、五時を過ぎて働いてなかった労働者たちは「誰も雇ってくれなかった」と途方に暮れていたのでしょう、それを主人である雇い主は憐れに思って、雇ってくれたのかもしれません。
しかしどちらの主人も、真面目に尽くした人たちの約束を破っているわけではありません。兄息子に対しては「わたしのものは全部あなたのものだ」と言っているし、朝の最初から雇った労働者たちに対しても「一日一デナリ」という契約を守って、賃金を支払っているのです。父や主人はいつも誠実なのです。


それに加えここで注目すべきなのは、他人と比べてしまう、私たちの心にあるのかもしれません。
時に「なぜあの人はあんなに恵まれているのに、自分はこんなに恵まれないのだ...」と、他人と比べ自分は不公平だと思ってしまうことがありませんか?
その時自分は、上記の、真面目に親に尽くした兄息子のように、真面目に朝から働いた労働者のように、自分を正当化していませんか?「私の方がこんなに、真面目に働いているのに」とか「私はこんなに、正しく暮らしているのに」とか。
逆に時には、人と比べ他人の不幸を観て「自分の方が幸せだ」と思うこともあるでしょう。
実は、唯一絶対にして全く聖なる神様の目から見ると、私たち人間は倫理的人間も前科何犯の人間も変わらぬ「罪人」であるというのが、聖書の語るメッセージなのです。
そしてこのように、自らを「正しい」とするその心や、自分を正当化しようとする自己中心的な姿勢こそが、最も注意すべきと言われているのではないでしょうか。
肝心なことは、自分は時に間違う者だと気づく謙虚な心なのでしょう。