私は決して信仰深い人間とは言えませんが、聖書を読むようになって不思議と聖書に描かれているさまざまな人間の姿に興味を惹かれました。

そこで感じたのは、聖書に出てくる人物たちは、決して清く正しく美しくもないということです。逆に、聖書は人間の愚かさ、醜さ、弱さを教えてくれるということでした。
そのことを知ることによって、自分がどういう過ちを犯す存在であるのかを知り、自ら考えることによって、この世をどのように生きていくべきかという指針を、立てることができるのだと思います。

本当に聖書は、様々な人間の生き様を描いています。その中でも福音書の中でよく知られている一つのできごとについて書いてみたいと思います。

するとペテロはイエスに答えて言った、「たとい、みんなの者があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」。 イエスは言われた、「よくあなたに言っておく。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないというだろう」。ペテロは言った、「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」。弟子たちもみな同じように言った。
マタイによる福音書26:33-35

ペテロは外で中庭にすわっていた。するとひとりの女中が彼のところにきて、「あなたもあのガリラヤ人イエスと一緒だった」と言った。するとペテロは、みんなの前でそれを打ち消して言った、「あなたが何を言っているのか、わからない」。そう言って入口の方に出て行くと、ほかの女中が彼を見て、そこにいる人々にむかって、「この人はナザレ人イエスと一緒だった」と言った。そこで彼は再びそれを打ち消して、「そんな人は知らない」と誓って言った。しばらくして、そこに立っていた人々が近寄ってきて、ペテロに言った、「確かにあなたも彼らの仲間だ。言葉づかいであなたのことがわかる」。彼は「その人のことは何も知らない」と言って、激しく誓いはじめた。するとすぐ鶏が鳴いた。ペテロは「鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われたイエスの言葉を思い出し、外に出て激しく泣いた。
マタイによる福音書26:69-75

この話は、よく語られる「ペテロの裏切り」の場面です。

シモン・ペテロはガリラヤ湖畔ベツサイダに住む漁師でした。ガリラヤ湖を訪れたイエスに「ついて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」と言われ「あなたをケパ(訳せばペテロ)と呼ぶことにする」と名づけられたとあります。

真っ直ぐな性格で熱血漢でもあり、また弟子たちの年長者でリーダー格でもあったペテロは、この福音書に書かれている言葉を観ても、イエスを愛する思いにおいては人後に落ちない自信があったものと思われます。

そのシモン・ペテロが、オリーブ山ではイエスにあらかじめ裏切ることを予告され、その後イエスが捕らえられ街中で人々から共にいた人物だと告発されると、迫害される恐れからなのか思わず本当にイエスが予告した通り3度も「知らない」と言って裏切ってしまい、直後に自ら気づいて泣いてしまうのです。

彼のように実直で正直に熱血漢で心から信じて付いていくと宣言している人物でも、自らの身体に迫害や危害が加えられそうな状況になると、思わず簡単にこのように人を裏切ってしまうのです。それだけ人間というのは、もろくも弱い者なのでしょうか・・・

それでもその後、イエスが葬られた後、ガリラヤに戻り漁をしていたペテロに復活の主が現れました。ほんの数日前に3度イエスを否認したペテロにイエスは3度「私を愛するか」と問いかけられ、後悔していたペテロは謙虚な思いで「愛します」と3度応答しました。その度にイエスは「わたしの羊を飼いなさい」と言われ、赦しと癒しと使命をお与えになりました。

その後のペテロは、心の痛みも解放されたのかその他の弟子たちとともに劇的に変えられていきます。そしてイエスの12使徒の筆頭格、一番弟子とも言われるような熱心な宣教師になるのです。その様子は使徒行伝に詳しく記されていますが、それからはペテロを中心に復活のイエスがキリスト(救い主)であるという宣教が始まり、エルサレムから福音が広まっていくのです。

このシモン・ペテロでさえも、自らの弱さを認め赦されて初めてその後、本当の強さを得て劇的に変えられていったということなのでしょう。