「聖書」というと、何を思い浮かべますか?

神様?イスラエル?キリスト教?
日本人はあまり聖書についての知識がないので、これらの漠然としたイメージで「聖書」を想うでしょう。

「聖書」というのは「旧約聖書」39書と「新約聖書」27書で成り立ち、ユダヤ教は「旧約聖書」のみ、キリスト教は両方を聖典とします。よってユダヤ教では「旧約」という語句は付かず「聖書」です。

「旧約」とは、神との古い契約という意味で、契約とは、神が選んだユダヤ民族が神の言葉である律法を守るなら、永遠の王国を与えるという約束のことです。「旧約聖書」は、1000年以上の期間にわたって書かれ紀元前4~5世紀に成立しました。この約束は、のちに与えられる「救世主(メシア)」によって実現すると預言されています。

一方「新約聖書」の「新約」とは、神との新しい契約という意味で、「新約聖書」はユダヤ教を母胎に生まれた「キリスト教」で生み出した書物。そもそも旧約聖書でも預言されたベツレヘムで生まれたイエスを救世主(メシア)とした前提で書かれた書物です。なので「旧約聖書」は「新約聖書」の前提という位置付けとなっています。

ユダヤ教とキリスト教。その最大の違いは、このイエスを救世主(メシア)と信じるか否かです。ユダヤ教では、イエスを救世主とは認めていません。一方、キリスト教では、イエスこそが聖書が語るメシア(キリスト)だと信じています。

「旧約聖書」では、1000年以上にわたって30人以上の預言者が300回以上メシアの到来を伝えています。メシアがいつ、どこで誕生するのか。どのような人生を送るのか。どのような死を迎えるのか…。「旧約聖書」にはメシアに関する預言が点在しています。なのでユダヤ教でも、この地上に将来、メシアが到来することは受け入れています。では、なぜユダヤ教では、イエスがメシアだとは認めないのでしょうか。それは、イエスはユダヤ人が期待していた「メシア」のイメージとは、まったく違う存在だったからです。

ユダヤ教では一般的に「旧約聖書」の律法を厳格に守り、道徳的にも規律正しく生きることを求めます。たとえば週のうち1日は完全に休みにすることが守られ、安息日にはどんな労働もしてはいけない決まりで、特にパリサイ派などは厳格に守っていました。

しかしイエスは、安息日にも人々と会って話を聞き病気を治したり、当時忌み嫌われていた収税人や売春婦たちを非難するのではなく、かえって彼らと共に時を過ごしました。またイエスは宗教指導者の偽善を指摘しました。なので当時のユダヤ教の指導者たちは、イエスに敵意すら抱くようになりました。

イエスの生涯は、ユダヤ人が待ち望むメシア像とは明らかに違いました。一世紀のユダヤはローマ帝国の植民地でした。当時のユダヤの人々は律法にかなった「立派なメシア」ローマ帝国の圧政から解放してくれる「政治的な救世主」を求めていたのです。

では、「キリスト教」とは、いったいどう違うのでしょうか?

日本人でも知ってる「イエス」という男性は、2000年ほど前にイスラエルのナザレという土地で生まれたユダヤ人です。ユダヤ人ですから、当初当然のようにユダヤ教徒でした。

そのナザレの「イエス」がイスラエルやパレスチナ各地でさまざまな業や説法を繰り広げ、中には当時のユダヤ教指導者たちには受け入れられないものも多く含まれ、自らも聖書で示されたメシアと名乗り救世主「イエス・キリスト」とされ、その弟子たちによって書かれた新約聖書各文書が広められ「キリスト教」ができたのです。

「キリスト教」は、自らの「罪」(犯罪とは違い、人間がもともと心の中に持っている神の言葉に反し自己中心的に行動しようとする心)を認め、その人間の原罪を、父なる神が、イエスを御子としてそして人としてこの世に送られ、全人類の罪を背負って十字架で死んだ後復活し、全人類の罪が赦されたことを信じる、そしてこの三位一体の神(父なる神、救い主イエス、聖霊)の存在を信じることなのです。