先日見てた、ある環境保護団体の番組。企業が露天掘りの炭鉱を作ろうとしている事に反対の運動なのだが、地元を環境破壊させないという地元エゴはまだ解るにしても、遠くから応援に来る多くの環境活動家は、SDGsの一端で「なぜ今から石炭なんだ!」「炭素放出を許さない!」方々であって、それはこのままでは地球温暖化で環境破壊が進み生態系が壊れいずれ人類が滅びる、と考えるからだよね。
 でも彼らは、化学を駆使したいろんな企業が作った立派な現代の洋服を着て、自動車や列車や飛行機などの交通機関で来るわけだ。時にはホッカイロなどの暖房持ってくるかもしれないし、ホテルに泊まり買い物だってスーパーでする現代社会に生きてる普通の人々だよね。
あの北欧の神経質そうな少女だって、ちょっとカヌー乗って大西洋だっけ渡るポーズを見せたけど、大人になるまで普通の社会に生きてきて教育受けて情報得たから疑問を感じ、あの後も普段は支持者の車か知らないけど交通機関使って遠くに移動し、暖房の効いた部屋で過ごしているわけだよね。
 要するに、縄文時代や弥生時代のような生活スタイルで生きて行こう!と主張しているわけではないのに、自分が恩恵を受けてきた現代の便利で豊かな社会、そしてそれを作ってきた人々、企業、この世の中は否定していきたいように見える。
私のように現代医学によって助けられ、現代科学の中でしか生存していく手段がない重度障害者にとっては、自分の存在自体を否定されているように思う。
 現代社会で文明の恩恵受けて、そのおかげで教育も受けられてそのおかげで自分の意見ができて、現代の科学技術情報社会のおかげで情報ももらえてここまで来てるのに、それなのに、そのような開発企業には有無を言わさずその活動を「悪」だと決めつける。
人間の「性」として文明が発達しその結果として地球環境に負荷がかかってきたのに、開発という手段を一直線に担ってきた人々、またそういう企業に働く人々をも「金のため」「利得目的」と悪人のように決めつける。自分はその恩恵を受けてきたからこそ、今の自分があるのに。
 これって「独善的」と言わずに、なんと表現する?
 自分の考えだけではないかも?となぜ思えないのだろう。何にでも多面性があるとは考えられない?人でも地域でも国であっても、事情に応じた対応ということをなぜ考えない?上記の石炭だって、それを使わざるを得ない国やその時々の事情などがあるかもしれないし、また、その企業で働いて生きている人も多くいてそのおかげで生きていける人もいるというのに、自分の考えだけが「正義」と言わんばかりに。
 あの水俣病のことだが、熊本の水俣という都市は人口数万の小さな隔絶された町で、あの町ではチッソという大きな企業が多くの雇用を賄っていたから住民がなかなかものが言えなかったという事情があったと聞く。もちろん、だから企業が何してもいいというわけではないが、この小さな町ではあの企業がなくなったら自分は生きていけなくなると、告白を躊躇した市民が多く居たことも覚えておかねばならない。
水俣病の事実判明は、大企業と繋がる東京大や九州大の研究者たちと一線を画す熊本大の研究者たちが、地元民に根差して解明した結果だったが。
 話は戻って現代の環境保護団体だが、自分にはどうしても他者と理解不能な独善者に見えるんだな。