先日の総理秘書官の同性愛者発言の件だが、やはり公的な場ではなくオフレコでの発言だったらしい。でもなんか、これは公表した記者は罪悪感感じないのかね?
オフレコ発言なのに「首相の秘書がこんな意見言ってます!こんなのが岸田政権の思想と思っていいのでしょうか!」なんて言ってるわけでしょ?でも、公に語った言葉ではない個人の嗜好の問題を公に晒して興奮してるって、妙に曲がった正義感だと思うんだな。
それを聞いた人々が「とんでもない差別です」と断言するのにも違和感ある。実際彼は、性的差別自体には反対し性的マイノリティに対する差別や偏見をなくす運動には賛成していると意見を言ってるのに、誰も聞かない。
要するに「自分は嫌い」と言うことは「差別」ということなんだね。そしてそれは大変「問題」なんだと。
「嫌い」と言われると悲しいでしょ?だから「嫌い」は差別に繋がるんだよ、と、説明する人がいる。一見もっともそうだがそれって実はおかしい。「嫌いは無知だから」という人がいる。でも上記の秘書官だって性的差別の問題は十分理解してるみたいだけど、隣に引っ越してきても嫌だと言ってるみたいよ。
そう、だって人間は、その為に思考して理解するんじゃない、それが理知というものでしょ。だから人間は考えなきゃならない。でも、理解すればなんでも好きになるのか?違うでしょ、そう言う人に限って、いろいろ学んで理解したらそっちに敵対的行動とる人いるでしょ?
「嗜好」の問題ではないでしょう、ましてや自分が生理的に受け入れられないものをも受け入れなければ「差別主義者」と言われるなら、自分は一生「差別主義者」だと断言できる。
なんか、また歪んだ正義感がポピュリズムを刺激して、世間を騒がせているように感じるなぁ。